In my 高野豆腐 head

頭スカスカ人間による雑文置き場

昨日は休肝日だった

 久々の休肝日を果たすことが出来た。3ヶ月ぶりくらいだろうか。

 夕方頃に一日の疲れが溜まって、メンタルががくんと落ちる瞬間がある。無性に酒が飲みたくなる。その時どうするか。ブラックコーヒーを淹れて飲んだ。これだけでも結構、メンタルが回復した。

 あと、日にも依るがぐいっと日本酒を立ち飲みして帰る日もある。どうするか。コンビニでおにぎりを一つ買って食う。原料は同じ米だ。なるほど、飲みたさは食べ物で誤魔化せると言われるのがわかる。血糖値を一時的に上げるのだ。

 夕飯のとき、どうしてもおかずを肴にグイグイ飲んでしまう。どうするか。程よい苦味がある飲み物が良いのだが、烏龍茶等はカフェインが入って眠りを妨げてしまう。杜仲茶を濃く煮出してそれに合わせてみる。うむ、中々イケる。

 当然ながら、酔っていないと夜が長い。久々にピアノを弾いてみた。相変わらずの下手さ加減だが、慰みにはなる。でも大したものは弾けないので、早々に読書をする。

 さあ寝るときだ、と意気込んでいてはあまり良く寝ることが出来ないが、家人がアイマスクを用意してくれた。眠剤も飲んだし、よく眠れるはずだ。入眠はおよそ9:40くらいだと思う。

 なかなか良く寝たな…と思って起きてみると、まだ3:00だった。猛烈な喉の乾きを催していたので水を2杯ほど飲む。酒を飲んでいないはずなのに、何故こんなに夜中に喉が乾くのだろう。杜仲茶が濃すぎたのかしらん。身体が少し硬直していることに気づいたので足つぼパッドを踏んで身体の緊張をほぐす。そしてアイマスクをしてホワイトノイズをイヤホンで聞きながらまた眠る。

 2度目に起きた時は6:45分位だった。子どもが起きてTVにスイッチを入れる音で目が覚めた。でもまだとろとろ眠っていられそうな気がする。

 中途覚醒したとは言え、入眠も早く、二度寝も割と出来たので、睡眠スコアとしてはマアマアの値がスマートウォッチを見ると出ていた。内臓の調子はすこぶる良い。

 予定では今日は飲酒日だが、この際だからもう2日くらい休肝してみようかという気になった。酒を飲んでいない時の身の処し方を学ぶために。

節酒することにした

 節酒することにした。理由は以下の通り。

  • 仕事でのストレスや、感情が高ぶった時に鎮める手段として酒を用いていたら、それ以外のストレス緩和法がわからなくなってしまった。もちろん、昼間っから飲むようなことはない…いや、休日だとあるかな。といっても、ウイスキーのシングルの1/3をなめるくらいだ。でも、精神的依存の萌芽だと思うので、リラックス方法を探求することにする。
  • はっきりと計測したことは無いが、毎晩、日本酒で言えばおそらく4-5合近く呑んでいるのではないか。標準的な飲酒量より多い。肝臓の数値が怖い。
  • 強度の不眠症である。結構強い睡眠薬を出されているが、それでも寝付けない時は寝付けない。そういう場合、軽く飲み直しすが、絶対これは身体に良くない。あと、睡眠薬と酒を併用しているせいか、最近物覚えが悪くなったような気がする。これが続くと重度のうつ病や健忘症になりそうで怖い。
  • 仕事の責任が増えそうである。今でさえこんな状態なのだから、もっと強いストレスにさらされたら、絶対に身に破滅をもたらすに決まっている。
  • 金がもったいないな、と思うようになった。自分は小遣い制なのだが、これをへそくりして、最新のRyzenでも買うか、困っている誰かのために使ったほうが良いなと思った。

というわけで節酒を始めることにした。完全に断酒するというのが一番と言う人もいるが、自分としては酒にはそれなりに愛着がある。適当に付き合っていけるように、こっちが身をただしていこうという心持ちである。

 

節酒プランとしては、

  • 月、水、日は飲まない。
  • 代わりに各種お茶をガブガブ飲む。
  • リラックス用に、カモミールティーやGABAサプリなどリラックス系の物質を適宜投入することにする。
  • 飲酒日でも、一日呑んでも3合まで。

 

以上が私の節酒プランである。こんな駄文読んでいる物好きもそうそういないと思うが、もし、禁を犯したときには、ここに報告する次第である。そのときには、コメントなり、ブコメなりで、徹底的に罵っていただきたい。以上。

 

--- 追記

仕事終わりが近づくにつれて、頭が酒を欲してきた。何かを口にすればいい、甘いものを口にすればいいと言う話を聞く。何をくおうか…

トランスを焼き切ってしまった

 電源用トランスをショートさせて壊した。焼き切ってしまったのだ。

 今の自分の仕事はプログラマだが、たまに電気回路を使った実験ぽいことをする。電子回路についてはオームの法則がわかる程度のど素人である。会社にある上司が作った自作電源があるんだが、それを盛大に焼き切ってしまった。昼休憩終わって帰ってきたらなんだか焦げ臭い。回路がショートしていたのだ。

 接続を失敗した自分のミスだし、トランス交換くらいだったらそんな費用もかからないので自腹でこっそり付け替えることにする。だけど、それでも治らなかったら、どうしよう。どうしようもこうしようもないわな。素直に修理してもらうことにする。それにしても、へこむ。

親父の背中

 親父は今年で72歳になる。

 三島由紀夫が、「父が子供に教育を施すというのは、農村や漁村の肉体労働を生業とする場合であって、都市インテリの場合は教えることなどほとんどない。せいぜい礼儀作法くらいだ」というような事を書いていたが、確かにそうかもしれない。都市インテリとは言えないような家だったが、サラリーマンの父が何を仕事にしているのかほとんど把握していなかった。

 多少の小言やアドバイスはあったと思うけど、コンコンと父から何かを教わったという記憶がない。テーブルマナーと、酒の飲み方くらいだ。父としてはもっといろいろなことを教えたかったのかもしれないが、こっちが乗り気でなかったか、向こうが忙しかったかで正式に何かを教わったという記憶はあまりない。そういえば後日成人してから、「俺は放任主義だったから」と父が言ったのを思い出した。

 とはいえ、父の影響を年々感じつつある。ビールから日本酒へ、日本酒から焼酎へと酒の好みが変わったこと。酒のアテは豆腐さえあればいいというようなこと。走ったりウォーキングしたりするのが日課になったこと。話し方、子供に怒るタイミングなんかも父そっくりだなと思うことがある。

 面と向かって教えることはあまりない人だったが、子は親の姿を見て勝手に学んでいく。いや、学んでいくというより、刷り込まれていく。時期が来たらこうなるのだと。親父から、僕は歳の取り方を学んでいたんだと思う。

螺旋状の鉄道の終着駅

 ゆらゆらとゆらめく人影の中、やや不安な気持ちで電車に乗っていた。市場でなんとなく買った荒巻じゃけと新聞紙に包まれた魚卵(何かは忘れた)を抱えたまま、乗換駅で別の路線に乗り換える。しかし、間違った路線だったために、見知らぬ景色へ、見知らぬ景色へと窓外は移り変わって行く。ふと「そう言えば荒巻じゃけと魚卵はどこへ?」。前の車両に置き忘れたことに気づいた。

 やがて終着駅に近づいた。高架線だったが、どんどん高さが上がっていき、その時までには多分地上30mくらいまでの高さまでになっていた。そしてゆっくりと螺旋状の線路を、ちょうど旋回しながら飛行機が着陸するように、地上駅に近づいていった。駅の名前は不明だが、都会の公園によくある、人工芝で覆われて、ちょっとした小山もあるような広場のどまんなかだった。大勢の子どもたちが遊んでいる。そして四方には、URが建てたような住宅が林立していて、その影が広場を覆っていた。

 これは、今朝見た夢である。久々に楽しい、と思える夢だった。夢、というのは夢の中の理屈で動いている。起きて考えてみると「おかしいやろ」としか言えないような論理で物事が進んでいくが、夢の中では納得している。こう考えると、納得いかないことだらけで進んでいく現実世界のほうがもっと奇々怪々である。夢が純然たる脳の創作物であるという証左でもある。脳は、元々不可解なものを処理できないのだ。

 あと楽しい夢というのは良い映画に似ている、とも思った。まっ暗闇の中で展開する物語。その中でしか成立しない理屈と整合性。どこへ連れ去られるのかわからない不安感と期待。そして終わった後に、光の中に出ていった時に、ぱっと消えてしまう幻影性。

 夢の中には繰り返し何十年も使い回された景色が出てくる。夢日記を付ければもっと鮮明になると言われているが、しない。あまりにも夢が鮮明になると、生きているのか死んでいるのかわからない自分の日常が夢になって、逆に完全に夢の世界の住人になってしまうのではないかという恐怖があるからだ。とかいいつつ夢日記を書いてしまったので、夢の世界に呼ばれているのかもしれない。

「カオナシ」には顔はある

 千と千尋の神隠しに出てくるカオナシ。顔が無いからカオナシなのだろうけど、本当にそうだろうか。顔が…あるではないか。そしてけっこう表情豊かでもある。たとえあれが仮面だとしても、そこからいろいろな表情を読み取ることができるのであれば、それを顔と呼んで差支えないと思う。

 「カオナシ」が本当に持っていないものは、「言葉」ではないだろうか。「ア、ア」と力なく声を発することはできるが、ほとんど意思伝達には及ばない。誰かを飲み込まないと言葉が出ないのだ。

 自分もカオナシのような心地になることがある。誰かの文体を借りないと、こんな雑文ブログでさえ書くことができない。ここで名前は出さないが、ブログを再開したのは明らかに某文筆家の文体の影響を受けた結果である(飲み込んだなんてとてもたいそれたことは言えない)。でもみんな案外そんなもんなんだろうか。誰かの文体を「飲み込んで」、それで文章力を身に着けたんだろうか。

 

 と、カオナシは一人夜更けに酒を飲みつつ考えるのである。

貧乏性なのか猜疑心なのか

 貧乏性というのは、いろいろなところに現れてくる。その現れ方は一様ではない。一方で乱費して金銭に無頓着でも、もう一方で変なところでケチ、という人が往々にしている。

 自分は金勘定は苦手だし、同じものを忘れて二度三度と繰り返して買うようなタイプだ。リッチだと言っているのではない。単に忘れっぽくてズボラなのだ。このズボラがなかったらさぞや沢山の金が溜まっただろうと思う。実に損なものだ。でもこれを今から矯正しようとしたら、多分ストレスで死ぬと思う。

 それでも自分が変なところでケチケチしていることに気づいた。特にお茶に関しては貧乏性だ。まず、できるだけ粉末緑茶を飲むか、煮立てたものを飲む。ティーバッグなどを使う場合にも、2度、3度出がらしになるまで淹れる。

 なぜ自分がお茶に関して貧乏性になったのかよくわからない。もしかしたら、貧乏性ではなく、「お茶はズルをしてポテンシャルを発揮していないのではないか」という根深い猜疑心があるのかもしれない。しかしなぜ、どこでお茶に猜疑心を持つに至ったか。未だ謎である。しかしお茶の成分を絞り尽くす、と言う意味でなんとなく「茶をしばく」という表現に接近している気がする。