In my 高野豆腐 head

頭スカスカ人間による雑文置き場

螺旋状の鉄道の終着駅

 ゆらゆらとゆらめく人影の中、やや不安な気持ちで電車に乗っていた。市場でなんとなく買った荒巻じゃけと新聞紙に包まれた魚卵(何かは忘れた)を抱えたまま、乗換駅で別の路線に乗り換える。しかし、間違った路線だったために、見知らぬ景色へ、見知らぬ景色へと窓外は移り変わって行く。ふと「そう言えば荒巻じゃけと魚卵はどこへ?」。前の車両に置き忘れたことに気づいた。

 やがて終着駅に近づいた。高架線だったが、どんどん高さが上がっていき、その時までには多分地上30mくらいまでの高さまでになっていた。そしてゆっくりと螺旋状の線路を、ちょうど旋回しながら飛行機が着陸するように、地上駅に近づいていった。駅の名前は不明だが、都会の公園によくある、人工芝で覆われて、ちょっとした小山もあるような広場のどまんなかだった。大勢の子どもたちが遊んでいる。そして四方には、URが建てたような住宅が林立していて、その影が広場を覆っていた。

 これは、今朝見た夢である。久々に楽しい、と思える夢だった。夢、というのは夢の中の理屈で動いている。起きて考えてみると「おかしいやろ」としか言えないような論理で物事が進んでいくが、夢の中では納得している。こう考えると、納得いかないことだらけで進んでいく現実世界のほうがもっと奇々怪々である。夢が純然たる脳の創作物であるという証左でもある。脳は、元々不可解なものを処理できないのだ。

 あと楽しい夢というのは良い映画に似ている、とも思った。まっ暗闇の中で展開する物語。その中でしか成立しない理屈と整合性。どこへ連れ去られるのかわからない不安感と期待。そして終わった後に、光の中に出ていった時に、ぱっと消えてしまう幻影性。

 夢の中には繰り返し何十年も使い回された景色が出てくる。夢日記を付ければもっと鮮明になると言われているが、しない。あまりにも夢が鮮明になると、生きているのか死んでいるのかわからない自分の日常が夢になって、逆に完全に夢の世界の住人になってしまうのではないかという恐怖があるからだ。とかいいつつ夢日記を書いてしまったので、夢の世界に呼ばれているのかもしれない。