In my 高野豆腐 head

頭スカスカ人間による雑文置き場

後期の中島らものエッセイが好きだ

 90年代の半ばを過ぎると、中島らもは本人曰く「今までの悪行の祟り」と「遺伝的なもの」を要因して様々な受難に合う。躁鬱病の波が大きくなり、それを抑えるために、とんでもない量の(「本人曰くお茶漬けにして食べられるくらいの」)薬を処方される。結果として、目がかすみ、意識は朦朧とし、視線はどこか宙をさまようかのような「廃人」のパブリック・イメージが表出した。だが、それはサブカル連中が期待したようなものではなく、主に医師の処方の結果だった。

 記憶力が落ちることによって、特にエッセイは似たりよったりの内容が増えてくる。視力低下により口述筆記を奥さんにしてもらうことにより、凝ったレトリックや博学を開陳するスタイルは薄まり、老人の昔話を聞いているかのような印象のある文章が増えてくる。でも、僕はそれが大変に好きだ。若い頃の文章は切れ味は鋭いが、どうも「怖い」イメージがある。それに同じ話を語り口を変えてする、というのは一種の芸である。落語家なんかはまさにそれで飯を食っているわけで、「創作」や「評論」としてではなく一種の芸、として氏の文体が確立したんではないかと積極的に捉えている。

 一方で、氏の身体的な限界だけがそういった変化をもたらしたのか、と言われると他にも要因があるような気がする。当時の氏の文章を見ると、「東海林さだおのまるかじりシリーズ」を絶賛する文章が度々出てくる。らもは東海林さだお氏のいい意味での目線の低さ、自分の内面とは関係なしに愉快な文章を紡ぎ出す刻苦の精神を称賛している。その東海林氏のスタンスに感銘を受け、無意識に自分の文体に取り入れたんではないか、と思った。

 らも氏は長いこと処方薬の副作用に苦しみ続けたが、ある時から(知り合いの専門外の医師からの助言で)薬をやめて目が再び見えるようになり、精神も復調した。だがその反動で強烈な躁状態に転じ、過度に攻撃的・活発になった。その果てに泥酔し、階段から転んで亡くなったことは各書に詳しい。